自分自身や家族など、身近な人が病気にかかった場合、多くの人がネット検索をする時代です。とくにがんは、高齢になるほどかかりやすい病気であり、1981年以降、死因のトップにある病名ではあり、2014年には生涯で日本人ががんにかかる確率は男性62%、女性47%と、およそ2人に1人は生涯に1度はかかる病気であるとされています。
しかし、治療の進歩はどんどん進んでおり、「がん=死、ではない」ことが周知されつつあるのが現在です。そして、進んでいるのは治療だけではなく、患者への告知や、患者の生活の仕方、といったもののスタンダードも急激に変化、進化してきたといわれています。
がんの告知、というとひと昔前は、本人の夫や妻や成人したこどもが知らされ、「本人に知らせるべきか否か」と家族が悩むものであるという認識が大きかったかと思います。
1990年代前半、つい最近のことのようですが、この時代でさえ本人への告知率は20%前後だったという数字があります。それが2016年には、本人への告知率は94%。隔世の感がありますね。これは、要因のいちばん大きいのが「医療の進歩」であるのはまちがいないですが、それと同時に、自分の体のことを知る権利、自分の体に起きた状況を知り、その先の道の選択を自分の意思で選んでいく権利といった、人権上の議論がより社会的に洗練されたということもあるかと思います。
患者本人が、治療がむずかしい病気であっても、治療がむずかしい病気であるからこそ、
自分がこの先どう生きていくのか、どう生活していくのかを決める権利がある、ということが、時代とともに意識として広まってきたということになりますね。
「自分で決める」。
自由と権利が手に入った! ということには常に別の側面もあります。「自分で決めなければならない」と受け止めるか、「自分で決めることができる」と受け止めるかでも個人差が出てくるでしょう。それでも、ただの二者択一という単純な図式ではありません。
お医者さんに託す、従う、治療方針を任せる選択もあるし、信頼できる病院や医者をとことん探すという方法を取られる方も多いですし、自分の体に起こった病気の、治療方法や可能性をどこまでも探る、という道を進む人も少なくありません。
昔は、主治医の治療方針がすべてでした。その後、セカンドオピニオン、という概念が出てきて、他のお医者さんはどういう見解か、を知ることがスタンダードになってきました。
大工さんだって歯医者さんだって、腕のいい悪いはなんだってピンキリなのですから、自分の命を預けるお医者さんを探すことが当たり前の時代になってよかった。
そしてインターネットの時代。世界中のありとあらゆる情報を掘り起こすことが可能なのが現代ですが、インターネットという大海は、膨大な情報であふれていて、玉石混交この上ない。自由と権利を手に入れると、責任や義務のありかたも複雑になり、選択肢は多岐にわたり、何が自分にとってよいことなのかの判断基準が複雑を極め、間違い、勘違い、思い込みといったいろんな危険性をはらむことになります。
* * 編集後記 *
先日、公園を散歩して、ベンチで一休みしていたら、となりのベンチでお父さんらしき40代くらいの男性と、小学生の女の子がベンチでお団子を食べていました。
しばらくもぐもぐしていたふたりですが、男性が「ねえ、素数って知ってる?」
と話を振り、利発そうなその女の子が「1,2,3……」と言い出しました。
男性は、「まずは定義からだよ。」と、威厳をもってそれをさえぎり、女の子は「えっと、偶数は素数じゃなくってー…」。すると男性は「1とその数以外公約数を持たない数」とまた威厳をもって断言していました。
女の子はもう一度、「1,2,3,5,…7,…9は3×3、…11、…13」と、ひとつひとつ確認しながらどんどん進んでいきました。
すごいなあと思いながらよく聞いていると、「47…、53…、59…」まで来たとき、
男性がまた威厳をもってかぶせたのです。「57が飛んだ!」と指摘。すると、女の子はその倍以上の威厳で、「19×3」 と言い放ったのです。まさに秒単位の速さで。
男性の「ああ……」という敗北感のあるため息、それにおかまいなしに女の子の「61、67…、71…」とゆっくり続ける声がそれに続いて聞こえてきました。
なんとも爽快で愉快な、日曜日の公園でした。
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